ESSAY

少数派:アンチマジョリティこそ幸福への道である

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幸福のかたち、それはひとそれぞれ。

そう言ってしまうと終いだが、世の中にはいわゆる「幸せ」というものに対しての一般認識があり、「幸福度」という数値まで出されている。

僕はこの一般認識:多数派としての「幸せ」に疑問を抱くことが多い。
「少数派」として生きる方がよほど幸福に近づくのではないかと考えているし、そう確信している。

ただ注意としてこの記事では多数派、少数派と書いているがこれは政治見解では一切ない。

一般認識としての幸せの形

幸せ、と聞いて思いつくキーワードはいくつかある。

結婚、出産、就職、出世、お金持ち、高級車、ブランド物…

出世してお金持ちになって、結婚して子供を作り、幸せな家庭を持つ」ということが幸せということは多くの人にとって当てはまる、言ってしまえばメディアや親・大人に「刷り込まれた幸せ」である。そして、多くの人がそれを目指し大人になっていく。

「好きなことばかりやっていないでまじめに働きなさい」「そろそろ結婚しないのか」「公務員が安定だ」「大きい会社に入ると偉い」「お前も高級車買いなよ」というおせっかいで反吐が出るような言葉を僕はしょっちゅう耳にしてきた。

もちろんこれらを手にし、心からの幸せを感じている人もいるであろう。しかし、これは誰にでも当てはまることはないはずだ。

多数派の幸福を目指した結果が幸福度下位の日本

世界幸福度ランキング」というものがある。

まず、「幸福度」とは国際幸福デーである3月20日に、国連が毎年発表している幸福度のランキングである。
国民に「どれくらい幸せと感じているか」を評価してもらった調査に加え、GDP、平均余命、寛大さ、社会的支援、自由度、腐敗度といった要素を元に測ったものが幸福というものである。

要は、GDPや平均余命という具体的な数値はあるが基本は心情によるところが大きいものであろう。

 

なんともおせっかいなランキングだなと思いながら毎年それは公表されているのだが、それによると日本は先進国の中でもかなり低いらしい。2019年はさらに順位を落としているらしい。

これは結局日本人が「わたしは幸福である」と思っている人が少ないということである。

そこで僕は思った。「多くの人が目指す幸福は、実は幸福じゃないんじゃないか」と。
多数派が幸せと感じていない→少数派の方が幸せという構図に考え付いた。

もちろん金銭的なところを言い訳にする人は多いだろう。そしてそれを国や会社の景気のせいにする。
でも景気が良くなりさえすれば自分に恩恵があるなんてのはあまりに他力本願で、それこそ幸福に繋がらない考えだなあとも思う。

幸せを感じている人は何かを捨てている人が多い

結婚したそのときは、それはそれは幸せであろう。出産して子供との暮らしもきっと幸せだ、と思う時はあると思う。

僕はそれは全く否定しない。しかし、「一時的なものなのじゃないかな」とも思ってしまう側面がある。
結婚したときは幸せだったな…なんて昔を思う人がほとんどで、その幸せは長くは続かないということも皆わかっている

僕の周りの人含め、「自分は幸せだ」と心から感じている人は、そういう多数派の幸福を捨てている人が多い。
分かりやすい例を挙げると例えばホリエモンは結婚を否定している。それに対し、「ホリエモンは結婚していないから不幸」というレッテルを貼ることは非常に無意味で滑稽なことなのである。
なぜなら、自分が幸せかどうかは自分の感情でしかないからである。

どうにも僕から見て、「結婚しない」と決めている人が幸せに見えるのだ。
きっとそれは、多数派の意見や常識に揺るがされることもなく、誰でもない自分の意志に従って生きているからであろう。

周りが結婚し始めたから、親にせかされたから、それで結婚したりしようと焦っている人も多いであろう。
でもそれが、自分自身が誰に影響されたものでもなく決断したものでなければきっと心からの幸せにはつながらない。

結婚ばかりに言及しているが、これは結婚に限ったことではなくはじめに挙げた出産、就職、出世、お金持ち、高級車、ブランド物…などという一般常識の幸福すべてに当てはまることである。

ミニマリストもひとつのアンチ多数派の形

ミニマリストという考え方・生活いまは一つのジャンルとして確立しているように思う。
流行でもあり関連書籍なども多数発行され、ミニマリストは増えてはいるがどちらかというとまだ少数派の考えである。

ある意味これも、「多くの物・高級なものを持つことが幸せ」というかつての、そしていまも蔓延るこの考え方を否定しているのである。
昭和時代の大量消費・高級志向こそがステータス・幸福であるという思考をいまだに引っ張っていて、ワイドショーで芸能人がそういう紹介のされ方をするのにいまだに多くの人が憧れるのである。

いわゆる「金持ち=幸せという多数派思考の否定」がミニマリストの思考なのだ。

一般常識から彼らのライフスタイルを見ると、質素・貧相・貧乏に見えるであろう。
しかし彼らはそんな人の目に揺れることなく、自分の生活に自信を持ち、一般常識とは違うところで幸せを感じている

疑問と責任を持ち、自分のしたいことに従うことが幸福につながる

親や人の意見が、本当に正しいのか、それが自分にも当てはまるかということを常に疑うクセをつける。
幸せを手にするためには、なにごとにも常に疑問を持つことが大切である。

なぜなら、「疑う」ということは誰でもない自分の声であり、自分の意志であるからである。

たとえば、「将来ユーチューバーになりたい」という若者の考えを否定する人は多い。それは少数派の安定しない生き方であり、心配だからである。
でも、もしほんとに自分がやりたいならやって、挫折したとしてもそこから立て直せばいいのである。その責任は自分が取ればいいし、助けてくれる人がいるなら助けてもらえばいい。

そう、「人のせいこそが不幸への道なのである。多数派というのは周りに流された結果そうなっている場合が多く、自分の不都合をすぐ周りのせいにする

こうしてはいけない、こうしなさいと人の意見に左右されるから言い訳が生まれるのだ。そしてその曲げられた信念が不幸へとつながる。

 

自分が望む道を選ぶのは相応の「責任」が伴う。責任を背負うことは多くの人は恐れて避けるものだ。なぜなら判断を人にゆだねると楽だから。

しかし如何にその責任を自分に課し、誰にも言い訳できない自分の意志で生きている状況を自分で作れるかという生き方をすれば、失敗しても成功してもきっと幸せなんじゃないかと僕は思う。

あえて、少数派を選ぶクセをつけてみる

昔から僕は天邪鬼な側面があり、全員が右を向くところでひとりだけ左を向くようなことをしてきたことが多く、それを恐れることもない。
協調性が無いとい合われたこともあるが、自分が正しいと思っていないことに賛同してまで協調することがそんなに大事なことなのか、とも思う。

少数派を選ぶには勇気がいる。
少数派とは「大勢とは馴染まない」生き方であり、かなり自分の中でいろんなことを割り切る必要がある。

極端にすべての判断をいきなり少数派に傾けることはお勧めしない。
だが、あえて小さなことから多数派のしないことを選択してみて、そのクセをつけてもいいんじゃないかと思う。

みんながビールを頼む中ハイボールが好きだったらそれを頼むでもいいし、健康ブームの中あえて不健康を選ぶなんてのも別にいいかもしれない。
そうやって少しずつでも人と違う選択が出来るようになっていけば、自ずと疑問を持ち責任を持つ生き方に傾倒していくのでないかなと思う。事実、その積み重ねこそが今の自分の考えでもあると思っているからである。

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