ESSAY

【考察】なぜ文章を書くのか 書きながら考察してみる

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最近はすっかりブログを書くのが習慣になり、ほとんど毎朝パソコンに向かっては文章を書くことが苦ではなくなってきた。

ブログを継続することで自分にとっていろんなメリットがあるとは思っているが、改めてなぜ毎朝貴重な時間を割いて文章を書くことに向き合っているのか考えてみようと思う。この文章を打っている現在、この記事の着地点は何も決まっていないし考えていない。書きながら考えようと思う。

 

まず昔から文章を書くことが好きだったかというと、全くそうではない。しかし、苦手ではなかった。

夏休みの読書感想文なんてまともに書いたことが無く親や親戚に書いてもらうこともザラにあった。授業の成績も5科目(国語、数学、理科、英語、社会)で国語が最も成績が良くなかった。しかし、いざ書くとなると基本的に筆は早い方で、あまり考えずに一気に書くことが昔からできていた。内容のクオリティはおそらく高くはなかったが。

そう考えると現代文の授業なんてどれだけ意味があったのかと思ってしまう。文章の、特に小説の解釈なんて人それぞれでいいのに点数や○×つけやがって、といつも思っていた。

 

文学にハマることもこれまでの人生で思い返しても2度ほどしかなく、しかもそのころ読んだのも各5冊づつくらいだ。一度目は高校生の頃。岩井俊二監督の「リリィ・シュシュのすべて」を観てから映画を見ることに没頭した時期があり、その小説版を読んでみたことがきっかけだ。そのころは純文学の作品はあまり読まず、同監督のスワロウテイルや時計仕掛けのオレンジなど映画の小説版ばかりを読んでいた。

2度目はここ2、3年前だ。友人の勧めで中島らもを読む機会があり、単純に文章を「格好いい」と思ったからだ。それから村上春樹やチャールズ・ブコウスキーなどの小説を読んでいたのだが、そのころちょうど綺麗なレール上の人生に飽き飽きしていたころで、ある意味「道を外した」生き方が記されているこれらの小説に魅力を感じた。

結局最近は本をよくことはあまりしていない。特に小説はここ数年読んでいない。文学に詳しい人をみると引け目を感じるくらいだ。

 

よく触れていた文章といえば昔から音楽が好きで、思えば歌詞をずっと読んでいていたなあと思う。

昨今のJPOPにあるような日記と大差のない読めばそのまま意味が分かるようなものではなく抽象的で断片的なものが好みで、それの意味を考えたり情景を浮かべたりするのが好きだった。最初のきっかけはBUMP OF CHECKENだった。ひとつの物語のような歌詞を読んで、聞いて、その世界に浸るのが好きだった。これまでに僕が一番触れた文学といえば歌詞の世界かもしれない。Blankey Jet Cityの「赤いタンバリン」の歌詞が子供のことだったと意味を知ったときには自然に涙が出たものだ。

洋楽の日本訳を読むのも好きだった。日本語の歌詞と違い和訳だとメロディーに合わせる時数なんて気にしなくてもいいから、意訳の部分なんかに「かっこいい言い回ししやがって」と突っ込みを入れながらRADIOHEADの和訳をよく読んでいた。そう思えば、僕は小説よりも詩が好きなのかもしれない。

 

ここまでなぜ僕が文学が趣味にならなかったとか歌詞を読むのが好きだったかと書いてきたのかというと、ああそうだ、なぜ僕が文章を書くのかということだ。

一度、文章を凄く褒められたことがある。中学校の頃の卒業アルバムの文集に書いたものだ。当時の恋人の母親にそれを読まれ、「とんでもなく文才がある」と妙に褒められたものだ。何を書いたかも覚えていないし特に狙った文章を書いたつもりもないのだが、今も昔も自分が書く文章を褒められたのはその一回きりで、強烈に印象に残っている。

子供のころのそういう成功体験というのは大人になっても残っている物で、どこかで僕は文章に自信を持っている。いや、こう書くと変だが文章内容よりも「書くこと」自体にどこか自信を持っている。そう考えると子供を褒めておくのは大切だなと話を逸らして思ったりもする。かといってこのブログの文章に自信を持っているのかと問われると別にそういうこともない。

 

もちろんブログを書き続けることでいくらかお金になればいいなあなんて思っていたりはする。現在このブログをはじめて50記事を超えたが、ここまでブログが続くのは人生ではじめてだ。広告の審査も通っているので、書くしかないのである。

しかしお金のことばかり考えているとブログの収益なんて悲しくなるほど上がらないもので、さらに3月に行われたGoogleの検索エンジンのアップデートでブログのアフィリエイトが絶望的になったという話もある。このブログを本格的に始めたのもこの3月だというのに。

 

それもわかっていてそれでも尚書き続けるのはもはや習慣になっていることもひとつだが、それよりいまは「自己表現できている実感」があるからというのが一番大きい。仕事もなんでもそうだが、お金だけを目的にすると何も面白くなくなる。

これまでの人生、審美眼や自分なりの哲学は蓄えてきたつもりであったがそれを一番細かく考えずにぶつけられるのがこのブログもとい文章だなと最近は思う。飲みの席で語るようなことはあってもそれは一夜の夢であり、次の日にはお互い忘れている。日々現れては消えるこの脳内の泡沫を形にしておきたい。28という今の年齢で考えていることがどれだけ社会に通用するのか、10年後の自分が読み返して青臭く思うのかを確かめてみたい。

でも、半年ほど前の記事ですら、ちょっと青臭く思ったりもする。はじめの頃の記事なんて読み返すとそりゃあ文章の酷いことか。いくつか書き直してはいるけど、まあ読む人のことを考えていない。それはこの記事も同じか。でも、文章力は確実にここまでで上がっているなと実感する。

 

読み返してはいないが正直自分語りばかりで酷い記事だろうなあと思う。ここまで読んでくれた人はよっぽど暇な人か、それとも僕のことを多少好きになってくれた人かどちらかに違いない。

でも書くからにはやっぱり多くの方に読んでもらいたいのだ。毎日数字のパッとしないアクセス解析を見るのも愉快ではないのだ。こんな文句を言ってもGoogleさんは相手にはしてくれないが。

100記事は最低書くと宣言したこのブログもやっと折り返し地点。少し何かが見えてきた気もするがまだ何も変わっていない気もする。100記事を達成したころにはどんな景色が見えているのか、楽しみでもある。

 

何も考えてなかったが、よかった。ちゃんと着地できた気もする。

箸休めみたいな記事だったがたまにはこういうのもいいなと思った。そしてやっぱり自分は考えなくても書けるじゃないかと己惚れている。誰が喜ぶんだこの記事、ミクシィの日記みたいだな。酒は飲んでいないよ。ここまで読んでくれてありがとう。

 

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